伊豆に流された頼朝と結婚
伊豆の豪族の北条時政の娘の政子は、平治の乱で平氏に源氏が負け、伊豆に流されてきた頼朝と出会いました。父・時政はこの時、平清盛から頼朝を監視する役目を命ぜられていました。立場上反対するしかない父・時政の反対を押し切り、政子は頼朝と結婚しました。
政子と頼朝の間には4人がいたと言われています。その中で重要になってくるのが、長男・頼家、次男・実朝です。この二人は後に将軍になりますが、これについては後述します。
それから頼朝は義経らと共に平氏を打倒し、鎌倉幕府の初代征夷大将軍となりました。しかし、将軍になってから7年ほどで頼朝は死んでしまいます。
頼朝の死後、身内での権力争い
頼朝の死後、将軍の座や実権を握る立場(執権)は政子の身内で取り合いになりました。順当に2代目将軍となった政子と頼朝の長男・頼家は乳母の比企氏を贔屓していたため、将軍を次男・実朝に据えて頼家と比企氏を幕府から排除しました。
その後、父・時政は3代目将軍・実朝を補佐する執権(幕府の実権を握る役職)に就き、北条家の力が強固になります。しかし、父・時政は後妻・牧の方との間の子供を贔屓するようになったので、弟・義時と共に父・時政を幕府から追放し、義時を執権としました。
将軍に次男・実朝、執権に弟・義時が就き、源家と北条家の勢力が幕府内で大きくなりますが、そんな中、実朝が長男・頼家の子に暗殺されてしまいます。
朝廷軍を打倒し、700年続く武家政権が始まっていく
3代目将軍・実朝が暗殺されたこと機に、朝廷側(後鳥羽上皇)が鎌倉幕府を潰し、政権を取り戻そうと戦いを仕掛けます。頼朝の血が途絶えたことで不安定になっていた幕府ですが、政子が御家人に頼朝への恩義を説き説得、一丸となって朝廷軍に勝ちました。
これが後に「承久の乱」と呼ばれ、700年続く武家政権を守った幕府と朝廷の戦いでした。
あとがき
今回は北条政子についてまとめてみました。今回も調べたものを記事にまとめているので間違いや補足があればコメントを残してもらえるとありがたいです。
このブログでは主に歴史について、誰が読んでも「最低限わかった気になれる」を目標に記事を制作しています。「もっとこうした方がいい」みたいな意見があったらぜひコメントをよろしくお願いします。
コメント